はたらく人のwell-beingを考える

フィンランドで学び国家認定ソーシャルワーカー資格、現在日本で【はたらく人のwell-being(より良く生きる)】のためのコンテンツを提供している、講師で開発者のおおばやしあやの仕事ブログです。

一体どこまでが「被災者」「被害者」なのか

前回の記事”被災したばかりの人に「頑張って」と言うべきではない理由”にはたくさんのご賛同をいただき、ありがとうございます。

 

東日本大震災で活動に尽力された元消防隊員の方に、「本当にこの通りです」というコメントを頂き、日本の災害救助の、現場活動者のケア・サポートの発展の必要性を改めて強く感じました。

 

wellbeing-at-work.hateblo.jp

 

今回は、前回と同様に、フィンランドの専門大学でノルウェーなどの例からクライシスワークを学んだ中で、もうひとつ私のお伝えしたかったこと「一体どこまでが被災者なのか」を、報道や法律目線ではなく、個々の感覚である精神的目線からお伝えしたいと思います。

 

 

自然災害が起こったとき、直接に物理的被害をこうむった人は明らかに被災者であると言えますが、では例えばその被災者の身内の方や、救助にあたり精神的外傷を受けたレスキュー隊、ニュースを聞いてひどく心を痛めている人などは犠牲になったと言えないのでしょうか?

 

 

結論は、以下です。

 

 

直接被災していなくても、その災害が心にショックを与えたなら、精神的に被害者であり、犠牲者と言える

 

そのcrisis(不測の事故・事件・災害・出来事)から精神的ショックを受けたのであれば、直接・間接関わりなく、広義でその人はvictimであると言える。

 

victimという英単語は、日本語では被災者・罹災者・被害者・犠牲者にあたるものとして使われる一語です。様々な自然災害に見舞われる日本では、ある事象から被害をこうむった人のことを現すニュアンスが様々ありますので、そこを補いつつ、お伝えしてゆきます。

 

ここから一旦、言葉を「被害者」へまとめます。

 

 

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この図は、災害や事故、事件などの、受け手側がコントロールできない、人生に作用するほど大変ショックな出来事…「クライシス」が起きた際に、トラウマ(精神的外傷)を受け得るのは誰かという観点から、イコール被害者になり得る人の分布を表しています。

 

※円の重なりと名称の位置はそれぞれ、災害の現場からの物理的距離を現すもので、誰が一番大きな精神的ショックを受けたかという図ではありません。「たとえ直接遭遇したのではなくとも、ひとつのクライシスが起きたことによって精神的に被害者になり得る人々」であり、精神的外傷の大きさは、あくまで個別の主観によるもので、ここでは全く表していないと捉えてください。

 

(尚、トラウマ的出来事とそこから立ち直る4つのフェーズについては、前回の記事を参照いただければ幸いです。)

 

 

 図の解説

 

①…実際に被害に遭った人のほか、(もしいれば)その原因となった人や、現場に居合わせた当事者も、精神的な目線では、それによりショックを受ければ被害者であると言うことができます。

 

自然災害では、地震や台風、洪水、豪雨などに直接遭遇し、それによって心的ショックを受けた方がこれに当たり、

事故では、例えば誤って高所から物を落とし、下に歩いている人にぶつけて頭に大怪我を負わせてしまったなら、ぶつけられた人は勿論ですが、(ショックの大きさは違えど)その隣を歩いていた友人も、うっかり落としてしまった加害者も、それによりトラウマ(精神的外傷)を受けた可能性があると捉えられます。

 

 

②…現場にいた目撃者も、物理的な害はなかったとしても、予測のできない恐ろしい出来事が突然目の前で起こるという点から、トラウマを受ける=被害者となる可能性はあります。

 

例えば自然災害では、自身は被害を免れたけれども、突然濁流が襲ってくるところや、人が流されている場面を、なんの心の準備もなしに間近で目撃せざるを得なかった人、

事故では、車と歩行者の交通事故が起き、人が大けがするさまを、目の前に突然見せつけられ回避できなかった人などを指します。

 

 

③…悲劇が起こった現場には直接居合わせなかったけれども、家族など身近な人が突然災害の犠牲となった場合や、凄惨な現場で怪我を負った人を救助をしたり、現場処理をしなければならない警察、消防、医療従事者や行政からの活動者も、精神的外傷を受け大いに被害者になり得ます。

 

突然大切な人が傷つけられたり、亡くなってしまう衝撃はもちろん、思いつく限りもっとも人生で体験したくないクライシスのひとつであり、甚大なトラウマの要因です。

 

そして、悲劇が起こったときは現場におらず、且つ、前情報があり、プロとしての仕事だったとしても、救助者、医療従事者、活動者の人々も、(当然ですが)日常ではありえない過酷な光景に触れ活動するため、ひとりの人間として心に傷を負ってしまう可能性が非常に高いです。

 

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補足ですが、例えばノルウェーでは、海底油田の火災が発生した際、ロケーション柄基本的に被害は大きく、救助者もかなりショックな現場を目の当たりにしなければいけないのですが、それを踏まえ、活動直後、数日後、数週間後と、彼らの話を聴き回復を早めるためのカウンセラー役が存在します。

 

何を見て、どんなことがあったか、その時自分はどんな気持ちだったか、ただ語り、聴いてもらえ、必要であればさらなるサポートも受けられるのですが、ひるがえって、「個」を「役割」が上回り、セーブやケアをする人のケアが異常なほど疎かにされる日本の災害の現場は、残酷ですらあり、まさに自己犠牲で精神を摺りつぶされるばかりの構造に、本当にこれから世論を変えていきたいという思いがあります。

 

救助の現場で自衛官が暖かい食事を取るのをバッシングしたり、彼らが悪いわけではないのに、飛び込み自殺の後処理に当たる鉄道会社の駅員に罵声を投げつけたり…近年信じられない言動が聞こえてきます。

 

増してや、自然災害時に救助や医療現場などで活動する人々の多くは、地元の…現地で自身や家族も物理的に被災された当事者の方々であることがほとんどです。二重三重の意味での受難を強いるのは間違いなく人災です。

あくまで仕事はひとつの役割であり、皆が個性ある人間であることを決して忘れてはいけないと、心から伝えたいです。

 

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④…被害に遭ったり現場で活動したわけでもないけれど、直接の被害者に接する介助者や介護者、教師、心理カウンセラーや医療従事者、ソーシャルワーカー、避難所ボランティアスタッフなども、精神的外傷を受ける可能性がある人々です。

 

例えば自然災害では、実際の被害者のケアとして話を聴き、その内容や表情、傷つきの深さを目の当たりにすることによって心にショックを受けてしまったり、

事故では、親を亡くした生徒に寄り添おうとした教師が、その生徒同様に精神的ショックを受けてしまうような恐れがあります。

 

 

⑤…隠れた被害者とは、これが非常に興味深いのですが、現場にいたわけでも、被害者と直に接したわけでもないのに、心に外傷を負ってしまう人々、この方たちも精神的には被害者となる言われています。

 

  • 「この人が犠牲になって、なぜ自分は無事に生きているんだろう」という罪悪感で心を自傷してしまう
  •  自分のところではない、遠方で起きた災害の映像をテレビで見てショックを受けてしまう
  • ニュースの映像や文面から、昔受けた災害を思い出してフラッシュバックを起こしてしまう

 

現在はインターネットの発展、映像技術向上などで非常に生々しく状況が伝わることから、なにか災害や事故が起こったとき、実は、非常に多くの人がこれらに当てはまってしまうと考えられています。

 

 

以上が、災害が起こったときの直接の被害者と、「たとえ直接遭遇したのではなくとも、ひとつのクライシスが起きたことによって精神的に被害者になり得る人々」(個々のショックの大きさは別の問題)の5つの開設です。

 

 

ここから、「被害者」一本化を戻し、この⑤「隠れた被害者」について解説します。

 

 

 

自分の身に実際起こっているのではないから、大したことでないと思わない

 

最近とても災害が多く、ニュースを見ているだけで気が滅入ったり、へこんだりすることがあります。自分は体験していないはずなのに、なぜ、「滅入る」「へこむ」のでしょう。それは、その映像や情報が自分の心身に確実に何らかの影響を及ぼしているからです。

 

映像によってショックを受けたとしても、「直接被害に遭った人に比べたら自分には何も起きていないではないか、不謹慎だ、申し訳ない」と考えてしまうことは危険で、自分はいまショックを受けているという自認を避けてしまうと、こころの回復を遅らせることもあります。もしそう感じたならば、「怖い」「ショックだ」と口にしてしまって良いのです。

 

脳は、五感で認識したこと…身に起きていることが現在進行なのか、過去の出来事なのか、そもそも現実なのか、仮想なのか、完全に区別できることはできないと言われています。映像を見ただけでも、ショックを受けてしまう可能性は充分あります。勿論、過去に体験したことを思い出してしまうこともあるでしょう。

そしてそれを「ショックを受けないようにコントロール」するのは、認識の外にあり、とても難しいことなのです。

 

 

私も身に覚えがあることなのですが、外国や、日本の他の地域の地震のニュース映像を見るとき、前回解説したような「何も考えられない」現象が自分の体に起こっていると感じます。ニュース映像に見入ってしまって、なにもできず呆然としてしまうのです。

 

これはある意味、視覚から地震を疑似体験しているのと同じことで、脳はそれほど正確に現実と非現実の区別がついていません。「何か起きた?」と脳機能は身の安全のために守りに入り、その後のサバイバルの判断に生かすため、必要な思考以外は五感からの情報収集に励もうとするため、映像にぼーっと見入ってしまうと考えられます。トラウマを植え付けている時間であるとも言え、可能ならば、回避をしたほうが良い状態です。

 

もし、ニュース映像を見て、呼吸や動悸が速くなったり、体がこわばったり、呆然としてしまうのなら、ショックを受けている状態です。

これは現実に起こっていることではないが、自分はショックを受けている」と気づき、必要な情報を得た後は、映像をじっくり見ないようにする、視覚での、動画での情報はインパクトが強いので、文字情報やラジオ音声にするなど、できる範囲で距離を置いてください。

 

津波地震などの映像を流されると、なぜかしっかり見なくてはいけない義務的な気持ちになってしまいますが、NHKなどが繰り返し同じ映像を流すのは、時間差でより多くの人に情報を伝えるためなので、一度見れば十分です。あとは、物理的にそこから離れることで、心をそこから引き離して守ってあげてください。

 

 

私はフィンランドで子どものサポートをするNGOで研修をしていたのですが、ストリートシューティング(道での銃乱射)や通り魔などの衝撃の強いニュースが報道されると、福祉機関ではすぐさまホットラインを開設し、ニュースを見聞きしてショックを受けた子どもの話を聴き、不安を和らげる活動をしていました。

 

間接的にでも精神的外傷を受けた子どもにその感情を話してもらうことで、PTSD(心的外傷後ストレス症候群:頭痛や睡眠障害など症状は様々)を予防しようという試みです。それは後々心に問題を持ってしまう子どもを減らすことにつながると教えられました。ニュースそのものが心の深手のもとにもなり得るのです。

 

 日本はまだまだこのような細やかなトラウマケアへの理解とサービスには時間が必要ですが、もしそうしたければ、誰か信用のおける近しい人と、その出来事について率直に感じたことを話し合うのも、受けたショックを後々に響かせない手段ですし、窓口は限られますが、地域の電話相談や、よりそいホットラインなどの公的サービスを利用されるのもいいかもしれません。(よりそいホットラインは、災害による間接的な不安症状はダイヤル1で)

 

 

直接の被災者ではなくとも、災害により心にショックを受ける限り、精神的被害者であり、犠牲者のひとりであると言える

 

今回のまとめです。

災害は、実際の被災者のほか、当事者から救助者、ケア提供者、映像で災害を見た人まで、実に多くの人の心に被害をもたらします。

 

物理的・精神的に直接被災することは、本当に大変なことですが、他方、救助者もまた心に被害を受け、また情報化社会の現在では、映像などから間接的な被害者も多く生み出しています。

 

「自分は直接の被災者ではないのだから」と気おくれする必要はなく、できるのならば情報から離れて心を守ろうとすること、率直な感情を近しい人に伝えたりサービスを利用すること、また、ニュース映像でショックを受けたような人がいたら、話を聴くこと、

 

そして重ねて、たとえ直接関わりのない人々であったとしても、災害や事故の救助者、医療従事者、現場活動者、被災者ケアテイカーに対して、同様に被害者であるかもしれないという想像力と配慮を、お願いしたいと思います。

 

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

 

 

おおばやしあや